おもろいで平野田植神事

田植神事

古代の神々への信仰と失われつつある農耕の風土を今に伝える
ユニークでロマン溢れる祭事

平野宮町の杭全神社(くまたじんじゃ)では,毎年4月13日の午後に「田植神事」が行われています.かつては,地域の有力者が主催して奉納した祭りでしたが,現在では,平野の町づくりを考える会が中心になって発足させた「御田植神事保存会」のメンバーが奉納する形をとってます.時代とともに,その運営形態は変化しましたが,地域の人々に「あーえん」と呼ばれ親しまれてきた祭りの伝統と精神を,変わらず受け継いでゆこうと続けられています.猿楽を基調とした形式は,数ある田植祭の中ではユニークなもので,大阪府の無形民俗文化財にも指定されています.

データ

日時

毎年4月13日午後

場所

杭全神社(平野宮町2-1-67)拝殿

JR平野駅から,南東方向へ徒歩約5分.JR線の南側に位置しています.

杭全神社付近の地図  --by Mapion--

料金

無料

解説

お田植神事について,地域の歴史に詳しい村田隆志さんに聞いてみました.

Q: お田植え神事ってなんですか?

A: 一般に,お田植神事がいつごろどのようにして始まったかは,詳しくわかっていませんが,全国各地に現在も残るポピュラーな行事のひとつです.神様の前で田植えをして,その年の豊作を祈る,というのがその目的です.神事というよりも芸能祭に近いものが多く,田楽の伴奏で田植えをした風習の名残であるといわれています.古くから農民たちの田植えによる素朴な喜びや祈りを残しているのでしょうね.

Q: 平野のお田植神事にはどんな特徴がありますか?

A: 田植神事には所作で農耕の様子を演じる形式と,実際の田に田植えをする形式とがあります.杭全神社のお田植神事は前者の形式です.ちなみに,近くにある住吉大社(大阪市住吉区)で行われるお田植神事は後者の形式です.杭全神社では,拝殿を田に見立て,畦切り,牛による田鋤き,田均し,畝つくり,そして水口つくり,籾種まき,松葉を苗とみなして田植えという順序で演技が行われます.ここまでの所作そのものは,どの神社でも同じようで,土地によってさらに色々な演技が加わります.杭全神社では,次郎坊という人形に飯を食べさせ,放尿させるという,風変わりな演技が加わっています.これには,神様が田んぼに肥料をあげる,という意味があるといわれています.いかにも立派な稲が育ちそうですね.

【写真】次郎坊 行事の後半に登場する次郎坊の人形.江戸時代に作られたものは傷みが激しかったため,平成15年(2003年)からはレプリカが使用されている.

Q: 平野でお田植神事が始まったきっかけは?

A: 杭全神社のお田植神事がはじまったきっかけについては,こんな話が残っています.鎌倉時代の建久元年(1190年)に杭全神社の証誠殿を祀るきっかけとなった熊野権現の像と共に翁の面があり,その口に稲籾を含んでいるのを不思議に思っていたところ,夢に老翁が現れて「人を選んで田に植えよ」と教えたので,猿楽の家である古春増五郎忠勝という者が選ばれ,神面を付けて翁舞を舞ったのが始まりといいます.いま行われている神事に残る田均しの形態などから,少なくとも近世初期には始まっていたものと思われます.古代信仰では,冬の間山中に籠もっていた山の神が,春先になると里に下ってきて田の神となり,稲田の育成を守って秋の末に再び山に帰ってゆくと信じられていました.その神を迎える姿が翁舞であり,春の迎えの舞のあとに,神に今年の稲作の無事を願う田植えの儀式が連なったのでしょう.

Q: お田植神事が行われる日時は決まっているのですか?

A: 現在の田植神事は4月13日の昼間に行われますが,大正時代までは,1月13日の夜遅くに行われ,さらに古く江戸時代には旧暦の1月13日子の刻(23時から24時過ぎ)に行われていました.もともと,日本の神々はすべて夜のうちに出現して,朝早く帰ってゆくと信じられていたからです.

Q: 町の人々にとってはどんな意味があったのでしょう?

A: 神事において蒔かれる稲籾には,それを籾に混ぜて芽生えた早苗を田に植えれば,その田はよく稔るという信仰がありました.今では単なる芸能神事ですが,昔の農民にとっては,作物の豊凶は死活に関わる重要な問題で,近郊の農民が大勢来て,蒔かれる稲籾を争って拾いました.演者が鍬を振り上げ「やあーえい」と掛け声を出すとき,観客が「あーえん」と方言で先走りをする,演者は見物人が「あー」と叫べば鍬を上げ「えん」と言えば自然に振り下ろす,演者と観衆が一体となる雰囲気で豊作を祈願したものでした.

Q: どんな人々が伝承しているのですか?

A: お田植神事は平野郷の指導者で,宮座の構成員であった七名家が主体となり,それに郷民が協力して行ってきたものです.神事に用いる諸道具が平野郷町の商人の寄付であったことからもそのことがうかがえます.明治初期の混乱期には,長らく勤仕していた古春家も行方不明となるなど,祭の存続が危ぶまれましたが,末吉家の努力などによって漸く存続することができました.その後長らく翁舞を勤めた末吉氏縁戚の能楽師柏原仁兵衛氏の逝去に伴って神事の前半を失い,末吉勘四郎氏演じる田植神事の存続も危ぶまれた頃,町の人々が協力して,田植神事保存会が結成され,亡くなられる前に末吉勘四郎氏の指導を得て,その民俗芸能を伝承することができました.大阪府の無形民俗文化財にも指定されて,地域文化財保存の意味からも幸せであったと言えます

解説:村田隆志(郷土史家,平野の町づくりを考える会会員)

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Last modified:Tuesday, 23-Mar-2004 13:09:24 JST