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平野の町づくりを考える会の情報につきましては、全興寺のサイトをご参照ください。
(2022年12月30日)
平野には、庶民が作ったものとしては日本で最初の学問所・含翠堂がありました。各地から講師を招き授業を行った他、飢饉の際などに被災民を救済する事業なども行ったと伝えられています。また含翠堂は、懐徳堂など大坂の私塾形成に大きな影響を与えたとされています。平野の町づくりを考える会では、含翠堂の精神を現在のまちづくりにも生かそうと、含翠堂顕彰会をつくり、顕彰碑を建てたほか、含翠堂の名を冠した講演会を5月と10月の年2回行っています。
日時 | 2004年10月11日(祝)13:30〜 |
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演題 | 平野郷・町人の学びの原点〜資料展示とお話し |
内容 | 我が国初の民間学問所「含翠堂」設立の背景には、平野郷の文化水準の高さと、町人の学びへの情熱があったと思われます。元禄より市町に住まいしていた「炭屋太兵衛」が残した学問所などの様々な未公開資料を、ご子孫の阪井明氏に展示していただき、お話しをおうかがいします。 |
講師 | 阪井 明 氏(平野郷民俗資料館館長) |
会場 | おも路地2階(平野本町4-12-21、全興寺内、06-6791-2680) |
会費 | 800円 |
含翠堂顕彰碑はかつて含翠堂があった場所近く(平野宮町2-9-18)の路上に建てられています。JR平野駅から徒歩約10分。
【碑文】含翠堂は 摂津国平野郷市町に 享保二年(一七一七)五月五日 土橋友直ら郷内好学の同志が創設した学校で 百五十余年存続し 明治5年(一八七二)学制公布により閉校した はじめは庭の老松にちなんで老松堂といったが 三宅萬年が范魯公の「鬱々含晩翠」の詩から採って含翠堂と改めた その隆盛が刺激し啓発して七年後に懐徳堂の開設を導いた 「万代のみとりをふくむこのもとに聖のふみのまとゐひろめん」 と誠心誠意郷民を教化しただけでなく その経営はすべて同志の寄金とその運用で維持され 寄金のさいにたびたび窮民を救済したことは たの学塾にみられない特色である ここに碑を旧阯に建て この輝かしい郷学の伝統を顕彰し 郷土文化発展の資とするものである
大阪大学名誉教授 梅溪昇
昭和六五年五月五日 建碑 平野戸主会
右図は摂津名所図会に掲載された含翠堂での講義の様子(伊藤東涯講筵の図)。伊藤東涯は堂創立時の講師で、土橋友直の師でもあった。
日時 | 2004年5月5日(祝)13:30〜 |
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演題 | 戦国乱世、伝統文化の伝搬者たち |
内容 | 戦国の乱世、混乱した京都を避けて地方の戦国大名や国人領主の許に下向する公家や僧・連歌師が多く、中には地方に移住するものが増えた。また連歌師宗長のように駿河今川氏親に仕えながら度々上洛し連歌会を指導するものもあった。こうした公家や文人によって京都の伝統文化が地方に伝搬された。歌集や紀行など文学作品を通して戦国時代の地方文化を眺めてみよう。 |
講師 | 鶴崎 裕雄 氏(帝塚山学院大学名誉教授) |
会場 | 全興寺(平野本町4-12-21, 06-6791-2680) |
日時 | 2003年5月3日(土)13:30〜 |
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演題 | 麻田剛立と大坂の町人学者たち |
内容 | 天文学をはじめ西洋学受容の途を拓いた麻田剛立の学問の特質について |
講師 | 浅井 允晶 氏(堺女子短期大学教授) |
会場 | 全興寺 |
日時 | 2003年10月13日(月・祝)13:30〜 |
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演題 | 平野郷町人《炭屋太兵衛》ののこしたもの |
内容 | 元禄時代より平野郷市町に住まいしていた「炭屋(阪井)太兵衛」は、両替商を営む傍ら、市町年寄、戸長などを務めていた。そのご子孫である阪井明氏に、文久三年築造の土蔵より商家の道具類、民具、古文書などの実物をお持ちいただき平野郷町人の生きざまについてお話いただきました。 |
講師 | 阪井 明 氏(平野郷民俗資料館) |
会場 | 全興寺 |
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